教育と文化


教育と文化

地域の未来を担う子どもたちの学びの場の変遷と、地域に根付く文化活動や史跡についてご紹介します。

(出典:豊橋市制施行100周年記念 校区のあゆみ 前芝)


1. 学校教育と文化

(1) 第一次世界大戦までの教育

学制施行以前 (維新前)の教育: 明治5年の学制発布以前、前芝地域の教育は主に寺院が担っていました。前芝の西福寺や蛤珠庵、日色野の神泉寺、梅薮の観音寺などが寺子屋の役割を果たし、8〜9歳頃の男子が読み書き・習字を中心に学んでいました。珠算塾もあり、教育と宗教が密接に関わっていました[source: 47]。

明治5年学制発布から〜公立学校の歩み: 明治6年(1873)、「巴水学校」が前芝村の西福寺に設立されました。その後、分離や統合を経て、明治12年には梅薮村に「第百五番小学梅薮校」が、明治15年には日色野村に「菱木野学校」が設立されました。当時の教育は「読み・書き・そろばん」が中心でした[source: 47]。

明治時代の前芝尋常小学校の第1回卒業記念写真
第1回前芝尋常小学校卒業記念写真

明治20年ごろ〜町村合併と小学校令時代: 明治16年(1883)には宮内省から「幼学綱要」全18巻が下賜され、教育勅語の元となりました(現在も前芝小学校に保管)[source: 48]。明治20年の学校令により、前芝・平井・日色野の三村連合立の学校となり、梅薮は伊奈学校に合併。明治22年の町村合併後、明治25年(1892)に現在の前芝小学校の場所に「前芝村立前芝尋常小学校」が創立され、前芝・日色野・梅薮の児童が通うようになりました[source: 48, 30]。

幼学綱要全18巻とそれを保管する木箱
幼学綱要全18巻と保管の木箱

前芝尋常小学校の稲場移転: 明治28年、前芝字稲場に新校舎が完成・移転。児童数増加に伴い、明治42年に校舎が増築されました。明治45年(1912)には高等科(修業4年)が併置され「前芝村立前芝尋常高等小学校」となり、遠足などの徒歩訓練も始まりました。この頃から教育に軍事的色彩が強まります[source: 48]。

大正時代頃の陸上競技リレーの写真
陸上競技リレーの記録写真

日本最古の二宮金次郎像: 前芝小学校出身の加藤六蔵(村長、県議、衆議院議員)は、報徳思想を広めたいと願い、前芝出身の彫塑家・藤原利平に制作を依頼。藤原は、魚を入れるビクを背負い本を読む独自の金次郎像を考案し、大正13年(1924)にセメントで制作、当時の稲場校舎正門脇に設置しました。これは日本最古と言われています[source: 48, 49]。

前芝小学校にある二宮金次郎像
日本最古と言われる二宮金次郎像(前芝小学校)

前芝小学校塩見塚への移転: 稲場校舎が手狭になったため、村の中央部である塩見塚への移転が計画されました。用地買収の難航や費用面での困難がありましたが、地域住民の多大な寄付(総額の8割)により、昭和2年(1927)4月に移転が実現しました[source: 49]。

昭和2年移転当時の前芝小学校の木造校舎
昭和2年移転当時の前芝小学校

(2) 第二次世界大戦までの教育

昭和恐慌の影響で欠食児童が増加し、学校では労作教育として炭焼きやサツマイモ栽培が行われました。昭和7年以降、国家主義が強化され、教科書も国家主義的な内容に変わりました。昭和11年には御真影(天皇の写真)を安置する奉安殿が新築されました[source: 49]。

戦時体制下の前芝教育 (昭和16年〜20年): 昭和16年「国民学校令」により校名を「前芝国民学校」と改称。教科も国民科、理数科などに再編されました。昭和17年からの学徒動員により、児童が工場で働き、高等科の授業は中断。昭和19年には高等科の生徒が前芝村の山三工場、小坂井町の住友工場、豊川海軍工廠へ動員されました。昭和20年には前芝国民学校生徒隊が結成され、軍事教練が徹底されました[source: 49]。

昭和20年8月7日の豊川海軍工廠爆撃では、動員されていた高等科1年男子10名が犠牲となりました。その慰霊碑「戦没学徒の碑」は昭和28年に建立され、現在は前芝中学校正門横に移設されています[source: 49, 50]。

戦没学徒の碑の写真
戦没学徒の碑(前芝中学校)

(3) 第二次世界大戦後の教育と保育 (昭和20年〜)

民主主義と六・三制: 終戦後、軍国主義的な教育は廃止され、奉安殿は前芝神明社の水屋に移築されました。昭和22年(1947)、「教育基本法」「学校教育法」公布により、教育の機会均等、9年間の義務教育、男女共学などが定められました。「六・三制」の発足に伴い、前芝国民学校は「前芝小学校」に、高等科は新制の「前芝中学校」として分離・独立しました。学芸会や運動会などの学校行事も復活しました[source: 50]。

昭和2年の前芝小学校校舎(再掲)
昭和2年移転当時の前芝小学校
昭和24年頃の前芝中学校の木造校舎
つぎつぎと充実していった校舎(前芝中学校)

前芝保育園のあゆみ: ルーツは昭和21年、西福寺住職が始めた私立三ツ葉保育園です。昭和26年に村へ移管され「前芝保育園」として塩見塚の新園舎(元騎兵連隊の建物)でスタートしました。昭和28年の台風13号で園舎は大きな被害を受けました。昭和29年の豊橋市合併後も運営は校区が行い、後に市との委託契約が結ばれました。昭和46年には社会福祉法人育栄会として認可・発足しました[source: 50, 51]。

三ツ葉保育園の第1期生記念写真
三ツ葉保育園の第1期生記念写真
昭和時代の前芝保育園の平屋建て園舎
前芝保育園の平屋建て園舎
保育園の学芸会で園児が演技している様子(昭和24年)
昭和24年保育園学芸会演技
台風13号で被害を受けた保育園の園舎
被害を受けた園舎

昭和31年からは保・小・中合同運動会が始まり、現在も続く伝統行事です。竹馬演技やちびっこ太鼓は保育園の名物となっています。園舎は増改築を重ね、平成12年にはホールが完成。地域の茶道師範による茶道講座や、中学生との交流なども行われています[source: 51]。

運動会で多くの園児が竹馬に乗って演技している様子
運動会名物の竹馬演技
保育園児と前芝中学校3年生が交流している様子
前芝中3年との保育交流

前芝小学校のあゆみ (戦後): 昭和25年に修学旅行が復活。昭和28年に校旗完成。昭和40年には交通安全推進研究校として研究発表。昭和48年、創立100周年を迎え、校歌制定や記念誌発行が行われました。昭和51年にはプールが完成。昭和58年からは体力づくりの「前芝オリンピック」がスタート。昭和62年からは海苔すき体験教室が始まりました。校舎の大規模改修、祖父母学級の開始、新聞コンクール入賞、健康推進校表彰など、様々な取り組みが行われています。近年では耐震化工事や、合同運動会での全校側転なども行われています[source: 52]。

海苔すき体験教室で児童が海苔をすいている様子
海苔すき体験教室

前芝中学校のあゆみ (戦後): 昭和22年、小学校の間借りからスタートし、昭和24年に塩見塚に木造本館が完成。昭和27年に校訓・校歌・校旗制定。昭和30年に豊橋市立前芝中学校となる。昭和37年にプール完成。昭和45年JRC加盟、ボランティア活動が活発化。昭和55年から地域の協力で「前芝ふれあい農園」を開始。昭和63年から百人一首大会がスタート。平成5年から福祉実践教室(車いす体験など)、平成7年から職業体験学習を開始。平成16年には全国学校図書館賞を受賞。部活動も活発で、平成17年にはハンドボール部が全国大会に出場・勝利しました[source: 53]。

中学校のハンドボールの試合風景

2. 社会教育と文化

(1) 農業補習学校

大正8年(1919)、小学校卒業後の青年などの教育機関として、前芝小学校に併設されました。修身、国語、算数、農業などを夜学で教えていました[source: 54]。

(2) 青年訓練所

大正15年(1926)、農業補習学校に併置される形で設立。16歳から20歳までの男子を対象に、修身公民科、教練、普通学科、職業学科を教えていました[source: 54]。

これらは昭和10年に「前芝村立青年学校」として統一され、職業に従事する青年が夜間に小学校で学びました。戦後まで存続し、普通科、本科、研究科などが設けられ、農業や水産、女子には家事なども教えられました[source: 54]。

(3) 戦時体制までの婦人会

前芝海岸で多くの人が集まり、出征兵士を歓送している古い写真
前芝海岸で出征兵士を歓送

元々は各部落ごとの婦人の集いでしたが、昭和12年に「大日本国防婦人会前芝支部」として統一され、出征兵士の歓送迎や慰問、留守家族への手助けなどを行いました。昭和17年には他の婦人団体と合同し「大日本婦人会」となりましたが、終戦と共に解散しました[source: 54]。

(4) 戦前戦後の青年団

明治維新後、前芝町、梅薮町、日色野町にそれぞれ青年の団体が存在し、祭礼などを中心に親睦を深めていました。明治44年に「前芝村青年会」として統一され、夜学会などの活動を行いました。戦後、民主的な青年団が再結成され、機関誌発行、敬老祝賀会、盆踊りなどを中心的に担いました。しかし、昭和40年代以降、進学等で地域を離れる若者が増え、昭和50年代半ばには組織がなくなりました[source: 55]。

(5) 戦後の社会教育学級

昭和24年の「社会教育法」公布を受け、地域社会に根差した教育活動が活発になりました。成人向けの社会学級、勤労青少年向けの青年学級、そして昭和23年に民主的な文化団体として再組織された婦人会(家庭生活改善などを目標とした)などが活動しました。これらの活動拠点として、昭和23年から昭和27年にかけて日色野、梅薮、前芝に公民館が建設され、集会や娯楽、文化活動に大いに利用されました[source: 55]。


3. 史跡・文化財・奇祭

(1) 前芝灯明台と前芝湊

石造りの前芝灯明台の写真
前芝灯明台(豊橋市有形文化財)

寛文8年(1668)、吉田藩主の船が遭難しかけたことを機に建設され、翌年から灯が点されました。当時、近隣には他に灯明台が少なく、重要な役割を果たしました。度重なる高潮や台風で倒壊・流出しましたが、その都度修復され、灯を灯し続けました。昭和32年に豊橋市有形文化財に指定され、現在は昭和29年建設の新灯台に役目を譲っています[source: 56]。

前芝湊は豊川河口の地の利を生かして栄え、伊勢参りの客なども多く利用し、伊勢屋などの宿が軒を連ねていました。廻船問屋の加藤家は多くの船を持ち、湊の中心的存在でした[source: 56]。

また、前芝湊は文化の拠点でもあり、江戸時代中期以降、加藤千陰、細井平州、本居大平といった一流の文化人が訪れました。彼らは廻船問屋・加藤家の別荘「観魚楼」に滞在し、湊の風景に感銘を受けて多くの作品を残しました。「観魚楼」の主・加藤広正自身も優れた歌人・俳人であり、この地から多くの俳人も生まれました。こうした文化的な土壌が、寺子屋教育などを通じて有能な人材を育む背景となりました[source: 56]。

修復された観魚楼の建物写真
修復された「観魚楼」

(2) 杢野甚七碑

杢野甚七碑の写真
海苔創業者 杢野甚七碑

三河海苔の創業者である杢野甚七の功績を讃え、後世に伝えるために明治26年(1893)に建立されました。高さ2m30cmの石碑で、前芝灯明台の西隣、青木海岸の堤防上にあります[source: 56, 57]。

(3) 厄祭

厄祭で山車を引く人々。法被を着ている。
厄祭で餅投げをしている櫓の上の人々と、下に集まる人々

起源は定かではありませんが、江戸中期頃から始まったと推測される神事です。例年旧暦正月10・11日に、数え年で厄年(男25・42・61歳、女19・33歳)にあたる人々が神明社で厄払いを行います。かつては、25歳の男性が中心となり、会所に10日間寝食を共にし、当日は餅を搗いて笹竹に結び、大八車に乗せて練り歩き、神事の後に盛大な餅投げを行っていました[source: 57]。

しかし、生活様式の変化などから、近年は祭りの形式も簡略化され、かつての賑わいは薄れつつあります[source: 57]。

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