文化の華開く ―人物列伝―
前芝校区の発展や文化の振興に貢献した、郷土の偉人たちをご紹介します。
(出典:豊橋市制施行100周年記念 校区のあゆみ 前芝)
(1) 杢野 甚七 (もくの じんしち)
文化11年(1814)前芝村生まれ。家業の農耕のかたわら漁に出ていました。嘉永6年(1853)、40歳の時に、ハマグリ養殖の簀(す)に海苔が付着しているのを発見し、海苔養殖の可能性に着目しました。翌安政元年(1854)、椎や樫などの枝を海中に立てる実験を行い、三河湾でも海苔養殖が可能であると確信。これが後の三河海苔の始まりとなります[source: 57]。
安政3年(1856)には藩からヒビ建て(海苔を付着させるための支柱)の許可を得、安政4年には海苔養殖仲間を結成し、製造した乾海苔を藩主に献上しました。その後、同志と共に海苔場の拡張に尽力し、白魚業者との権利争い(養笠騒動)なども乗り越え、三河湾一帯を全国屈指の海苔生産地に発展させました[source: 57, 40]。
その功績は称えられ、明治27年には愛知県知事表彰を受け、明治26年にはその功績を伝える「海苔創業者杢野甚七碑」が建立されました。明治37年(1904)死去、享年90[source: 58]。
(2) 加藤 六蔵 (かとう ろくぞう)
安政5年(1858)前芝生まれ。幼名は幸三郎。先祖は加藤清正に仕えた武士でしたが、主家滅亡後に帰農し前芝に移住しました。明治5年、豊橋の英学塾で学び、その後上京して福沢諭吉の慶應義塾で学びました[source: 58]。
卒業後は家業(醤油醸造、米穀販売、海運など)に専念する一方、豊橋商工会議所の設立(初代会頭の一人)、会社の創設、鉄道敷設計画など、地方の発展に尽力しました。教育にも熱心で、明治13年に宝飯郡教育会長となると、三河初の中学校である宝飯郡中学校(現・時習館高校の前身の一つ)の創設を主導し、初代校長となりました[source: 58]。
明治19年に県会議員に当選し政界へ進出。明治23年の第1回衆議院議員選挙で当選し、通算6回当選を果たしました。議会では一貫して緊縮財政を主張し、財政慎重論者として知られました。島田三郎、犬養毅、大隈重信など著名人との交友も深かったといいます[source: 58]。
明治42年(1909)6月21日、52歳で病没。大正4年、彼の功績を讃える銅像が新宮山上に建立されました(戦時中に供出され、現在は台座のみ)[source: 58]。
(3) 林 虎雄 (はやし とらお)
明治26年(1893)前芝生まれ。愛知県立第四中学校(現・時習館高校)、名古屋高等工業学校(現・名工大)を卒業。三井物産を経て豊田紡織に入社し、取締役に就任[source: 59]。
昭和18年にトヨタ自動車取締役となり、戦後の昭和24年、日本電装(現・デンソー)設立時に初代社長に就任しました。以後、昭和42年に会長となるまで約20年間社長を務め、同社を日本有数の一流企業へと育て上げました[source: 59]。
昭和35年夏には、工場見学に訪れた前芝中学校の生徒たちの前で、自社の将来などを熱心に語ったエピソードも残っています。昭和41年に勲三等旭日中綬章を受章。昭和45年(1970)9月8日、77歳で死去[source: 40, 59]。
(4) 平野 賢治 (ひらの けんじ)
明治33年(1900)前芝村青木生まれ。平野家に養子に入り、家業の肥料・米穀商(丸文平野屋)を継ぎ、養鶏用飼料も加えました。昭和6年、マルト豊橋飼料合名会社を設立。会社経営の傍ら、昭和16年から5年間、前芝村長を務めました(当時、県下最年少)。戦後、公職追放(レッドパージ)の対象となりましたが、会社は回復・発展し、本社移転や子会社設立を果たし、日本飼料工業会副会長や豊橋商工会議所会頭なども歴任しました[source: 59]。
政治家の河野一郎氏と親交が深く、その息子の河野洋平氏(元衆議院議長)からは「豊橋のおじいちゃん」と呼ばれていたほどの仲でした。昭和56年に社長職を子息に譲り会長に。昭和60年(1985)1月17日、84歳で死去。昭和46年に勲五等を受章[source: 41, 59]。
(5) 山内 俊次 (やまうち しゅんじ)
明治33年(1900)前芝村日色野生まれ。前芝小学校、岡崎師範学校を卒業後、教職に就きました。岡崎師範学校附属小学校勤務を経て上京し、千代田区内の小学校に奉職。35歳で校長となり、連合国統治時代には日本の学校教育の代表校ともされた永田町小学校(現・麹町小学校)の校長を17年間務めました。マッカーサー元帥やヘレン・ケラーも視察に訪れたといいます[source: 60]。
勤務評定反対闘争が盛んだった昭和30年代半ばには、全国小学校長会会長を務めました。日本算数教育研究会の初代会長も歴任。退職後は宮中晩餐会に招待されたり、お茶の水女子大学の講師を務めたりしました。東京オリンピックの鼓笛隊指導にも携わったとされます。昭和43年(1968)4月13日、67歳で死去。勲五等を授与されました[source: 60]。
(6) 塩野谷 九十九 (しおのや つくも)
明治38年(1905)前芝村日色野生まれ。前芝小学校、県立豊橋中学校(現・時習館高校)、東京商科大学(現・一橋大学)を卒業。昭和5年から名古屋高等商業学校(後の名古屋大学経済学部)に勤務し、昭和18年に教授となりました[source: 60]。
戦後、昭和23年に名古屋大学経済学部教授となり、昭和28年に経済学博士号を取得。昭和40年代には4年間、経済学部長を務めました。昭和44年に定年退官し、名誉教授に。昭和50年秋に勲二等旭日重光章を受章しました[source: 60]。
マルクス経済学が主流だった時代に、ケインズ経済学を日本に紹介し、その確立に生涯を捧げました。主著に「アメリカ経済の発展」「ケインズ経済学の展開」「経済発展と資本蓄積」などがあり、ケインズ「雇用・利子及び貨幣の一般理論」の翻訳も手掛けました。昭和58年(1983)6月4日死去、享年77。ご子息の塩野谷祐一氏も著名な経済学者です[source: 60, 61]。
(7) 松下 芝堂 (まつした しどう)
本名は須砂雄(すさお)。大正15年(1926)前芝生まれ。前芝小学校、蒲郡農業学校を卒業。若い頃から書に関心を抱き、当時渥美に帰郷していた書家・鈴木翡軒(ひけん)に師事しました[source: 61]。
昭和30年に日展初入選。その後、日展特選(昭和34年)、日展審査員(昭和38年)、日展評議員(昭和42年)と、書道界で着実に地位を確立していきました。平成6年には日展で文部大臣賞を受賞[source: 61]。
平成10年(1998)には日本芸術院賞・恩賜賞を受賞し、併せて中日文化賞も獲得。中部日本書道界のリーダー的存在となりました。平成14年秋には勲四等旭日小綬章を受章。多くの弟子を育て、その中からも日展入選者を輩出しています(前芝出身の庄田翠苑氏もその一人)。現在も書界の発展に貢献しています[source: 61]。
後につづけ昭和世代!!
ここに挙げた方々以外にも、前芝校区には様々な分野で活躍されている方々がいます。昭和生まれの世代も、これからの前芝を担い、様々な分野で大きな花を咲かせていくことが期待されます[source: 61]。(※本文より要約)