歴史と生活


歴史と生活

前芝がどのように形作られ、人々がどのような営みを続けてきたのか。ここでは、その歴史的な歩みと、時代の変化とともに移り変わってきた産業や生活の様子をご紹介します。

(出典:豊橋市制施行100周年記念 校区のあゆみ 前芝)


1. 前芝の歴史

(1) 江戸時代まで

「前芝」の地名は約500年前の戦国時代の文書に初めて現れます。最も古い西福寺は1475年の創建とされ、約400年前には今川義元により白魚漁が許可され、繁栄のきっかけとなりました[source: 21]。

梅薮(古くは洲崎)は江戸時代から独立した村でしたが、天文9年(1540)の大津波をはじめ、度重なる水害に見舞われました。塩浜もありましたが、宝永4年(1707)の地震で失われ(後の山内新田)、正徳2年(1712)には再び全村流失の被害に遭いながらも復興しました[source: 21]。

江戸時代には新田開発が盛んに行われ、西浦新田、青木新田、加藤新田など14もの新田が開発されました。支配体制は吉田藩領や天領(幕府直轄地)と変遷しました[source: 21]。

前芝湊は港や漁業で栄え、1868年には前芝灯明台が建設されました。加藤家は廻船問屋として多くの船を持ち、江戸などへ廻船していました。文化11年(1814)生まれの杢野甚七は、海苔の付着を発見し、研究の末、安政元年(1854)に三河湾での海苔養殖を成功させました[source: 21]。

(2) 明治から昭和時代まで

明治時代に入り、額田県から愛知県へと所属が変わり、明治7年(1874)の戸数・人口は以下の通りでした[source: 21]。

村名戸数人口
前芝村253戸男544人 女587人
梅薮村87戸男202人 女222人
日色野村56戸男111人 女122人

明治22年(1889)に町村制が施行され、前芝村・梅薮村・日色野村が合併し、新しい前芝村が成立しました[source: 23]。

明治39年頃の加藤家と醤油工場
加藤家と醤油工場(明治39年5月)
昭和6年完成の前芝村役場
前芝村役場(昭和6年8月25日完成)

昭和初期には、高須への工場誘致計画に対し、水産業への影響を懸念した漁民が反対運動を起こし、計画を断念させる出来事もありました[source: 24]。

昭和30年(1955)2月28日、前芝村は豊橋市に合併しました。当時の人口は3,565人、面積は2.82平方キロメートルでした。合併先については議論がありましたが、漁業権問題の解決などを考慮し、豊橋市への合併が決定されました[source: 24]。


2. 産業の移り変わり

(1) 海苔養殖業

女性が木枠を使って海苔をすいている様子
海苔すき風景
海岸に海苔を干すための枠が多数並べられている様子
海苔の天日干し

明治36年頃には豊川河口一帯で約1,000人が海苔養殖に従事し、生産額は7万円に達しました。明治39年には「三河海苔改良組合」が結成され、「三河海苔」の名を広めていきました。東三河地区は日本三大海苔生産地の一つとなり、昭和10年には東三海苔振興会に18組合・3,100戸以上が加入していました[source: 24]。

【昭和10年度 海苔生産量・生産額】

組合生産量生産額
前芝組合8,818,000枚75,285円
梅薮組合5,002,000枚46,186円
日色野組合1,231,000枚13,235円

昭和28年頃からの技術革新(網ひび養殖、人工採苗、冷蔵保管、浮流し養殖など)により生産量は増加しました[source: 31]。

海岸のいたるところで海苔の天日干しが行われている風景
海岸のいたるところで海苔の天日干し

昭和36年度には生産量がピークに達しましたが、その後、特に昭和40年代に入ると埋め立て計画の影響などもあり、生産量は変動していきます[source: 25, 31]。

【昭和36年度 海苔生産量・戸数】

組合生産量戸数
前芝組合24,176,000枚315
梅薮組合14,434,000枚137
日色野組合3,878,000枚51

【昭和38年度 海苔生産量・生産額】

組合生産量生産額(千円)
前芝組合15,366,050枚238,034
梅薮組合7,713,310枚113,583
日色野組合2,147,630枚32,489

【昭和44年度 海苔生産量・戸数】

組合生産量戸数
前芝組合11,181,000枚220
梅薮組合11,049,000枚119
日色野組合738,000枚39

(2) アサリ採取業

六条潟や西浜は古くから良質なアサリ・ハマグリの漁場であり、特にアサリ種子の産地として有名でした。戦中・戦後の食糧難の時代には貴重な食料となり、佃煮用など需要が増加しました。県下のアサリ養殖業が盛んになると、その種子の多くが六条潟から供給され、種子採取日には多くの買い付け船で賑わいました[source: 31]。

【昭和38年 水揚地別漁業種類別漁獲量 (kg)】

区分漁獲高採貝刺網その他
前芝1,293,6401,132,100146,66914,871
梅薮813,817809,9173,900
日色野137,478137,100240138

昭和38年の漁獲量を見ると、アサリなどの採貝が各地区で非常に高い割合を占めていました[source: 33]。

(3) 観光業

昭和30年頃の栄楽屋前の立干し網漁の様子
栄楽屋前の立干し網漁(昭和30年)
昭和30年頃の海水浴場と桟敷(海の家)の様子
海水浴場と桟敷(昭和30年)

前芝海岸は、潮干狩りや立干し網、海水浴で賑わいました。奥三河や長野、静岡方面からも多くの客が訪れ、前芝館などの旅館もありました。大正時代から海水浴場として知られ、戦後には桟敷(海の家)も増え、昭和30年頃には年間5〜6千人の海水浴客と、約3千人の立干網客がいたと推測されています[source: 34]。

(4) 養蚕業と製糸工場

約100年前の繭を入れた倉庫(建物)
約100年前の繭を入れた倉庫(前芝町)

かつて前芝村では麦や綿などが栽培されていましたが、日清戦争頃から養蚕業が盛んになり、桑畑が拡大しました。明治40年頃には80〜90町歩に及びましたが、化学繊維の普及や台風被害により衰退し、昭和28年を最後に養蚕業は姿を消しました[source: 34]。

養蚕業の発展に伴い製糸工場もでき、最盛期の大正7〜8年には4工場で約500人の工員が働き、生糸などを生産していました。工員の多くは奥三河や静岡県からの出身者でした。しかし、不況や戦争の影響で昭和18年までに全ての工場が廃業しました[source: 34, 35]。


3. 校区の概観と産業

(1) 景観と人口

現在の前芝町、梅薮町、西浜町の大部分は第一種住居地域で、住宅地開発が進んでいます。国道23号線沿いや豊川橋付近は準工業地域、小中学校周辺や日色野町は市街化調整区域で田園風景が残ります[source: 35]。

平成11年の豊橋前芝西部土地区画整理事業完了により西浜町が誕生し、近年の人口増加(平成16年時点で約4,200人)の主な要因となっています[source: 35]。

平成2年から平成16年までの校区人口の推移を示す棒グラフ
校区人口の増加の様子
平成16年の町別人口の割合を示す円グラフ
町別人口の割合(平成16年4月)

(2) 農業

前芝校区は、かつては半農半漁の家が多く、「夏は陸で田に立ち、冬は海でノリを採る」という生活でした。現在、農家数は減少傾向にあり、特に前芝町では非農家の割合が高くなっています[source: 35]。田畑の面積も減少し、休耕田も見られます[source: 36]。

前芝、梅薮、日色野それぞれの総戸数に占める農家の割合を示す円グラフ
総戸数に占める農家の割合(左から前芝、梅薮、日色野 2000年)
1950年から2000年までの前芝の農家数の変化を示す棒グラフ
前芝の農家数の変化
1950年から2000年までの田の面積変化を示す棒グラフ
田の面積変化(単位はアール)
1950年から2000年までの畑の面積変化を示す棒グラフ
畑の面積変化(単位はアール)
1970年から2000年までの稲の作付け面積の変化を示す棒グラフ
稲の(販売目的で)作付け面積(単位はアール)

稲作: 無農薬・有機農法に取り組む農家もあり、コシヒカリなどを生産・販売しています。大規模経営化や農地の集約化が今後の課題です。前芝小学校では農業体験学習も行われています[source: 36]。

小学校5年生が稲刈りをしている写真
稲刈りをする5年生: 品種は『祭り晴』

イチゴ栽培(梅薮): 約30年前から始まり、現在はハウスでの高設栽培が主流です。「とちおとめ」「章姫」などの品種が栽培され、JAなどを通じて出荷されています。後継者不足や生産者の高齢化が課題です[source: 37]。

花卉栽培(日色野): シクラメンを中心に、ボロニア、シーマニア、ミニバラなどを栽培し、全国に出荷しています[source: 37]。

シソ栽培: 大葉や、刺身のつまなどに使われる「花穂」「穂シソ」をハウス栽培や露地栽培で生産・出荷しています。害虫駆除や病気対策に注意が必要です。「花穂」「穂シソ」は豊橋の特産物です[source: 37]。

花穂を木箱に詰めている作業風景
花穂の木箱詰めの作業

(3) 商業

豊橋市全体と同様に、前芝校区でも商店数や年間商品販売額は減少傾向にあります。市外へ買い物に行く人の割合が比較的高いという特徴も見られます[source: 37]。

平成2年から平成14年までの校区の商店(卸売・小売)数の変化を示す棒グラフ
校区の商店(卸売・小売)数

校区内には大型店はなく、小売店は飲食料品店、自動車・自転車店などが中心です。昔ながらの地域密着型の商店やコンビニ、理容店・美容院もあり、地域住民に利用されています。飲食店は国道23号線沿いに多く見られます[source: 38]。

買い物(日用品・食品)の場所を尋ねたアンケート結果の円グラフ
買い物(日用品・食品)
外食(家族で行く飲食店)の場所を尋ねたアンケート結果の円グラフ(円グラフが表示されていれば)
外食(家族で行く飲食店) ※グラフがあれば

4. 前芝の特色ある産業

袋詰めされた出荷前のアサリ
小袋に詰められ出荷されるアサリ

(1) アサリ卸売業

前芝・梅薮には、全国からアサリを集荷し、洗浄・砂抜きをして全国に出荷する卸売業者が複数あります。渥美や知多、山口、九州などからアサリを仕入れ、年間を通じて扱っています。近年はアサリの価格が上昇し、手間もかかるため、経営は厳しくなっている側面もあります[source: 38]。

(2) 佃煮業

円形の網に串刺しの魚を並べている佃煮の仕込み作業
佃煮の仕込み作業①
作業台の上で佃煮用の魚を串刺しにしている作業風景
佃煮の仕込み作業②

前芝の佃煮業は、大正11年(1922)に梅薮の業者が始めたのが起源です。当初はアサリやハゼが中心でしたが、魚など他の食材にも広げ、現在も日本の伝統の味を守り続けています。材料は主に冷凍物を使用し、アサリ、マグロ、イワシ、サンマなどを全国に出荷しています。袋詰めは手作業で行われることも多く、各社秘伝のタレで独自の味を出しています[source: 38]。

現在、三河佃煮工業協同組合には、梅薮・前芝の4社が加盟しています[source: 39]。

手作業で佃煮をパックに詰めている様子
手作業でパック詰めされる佃煮

(3) 冷凍食品業

昭和44年から冷凍食品製造を始めた水産業者もあります。当初は地元のアサリやミカン、イチゴなどを冷凍加工していましたが、昭和50年代からは輸入冷凍エビの加工・パック詰めが中心となり、大手食品メーカーのブランドで外食産業やスーパーに出荷しています。現在は中国やベトナムからの輸入品も扱っています[source: 39]。

(4) アユ養殖業

海苔や農業から転換し、昭和47年から養鰻を始め、その後アユ養殖に切り替えた養魚場もあります。病気を防ぐためハウス内の水槽で、人工孵化させた稚魚を育てています。豊富な地下水を利用し、年間90万〜100万匹のアユを関東・関西方面へ出荷しています[source: 39]。

(5) ウナギ卸売業

西浜には、西三河や豊橋の養鰻業者から仕入れたウナギを、地下水で活かしながら全国に出荷する卸売業者があります。交通の便や地下水、排水路の条件が良いことから、平成4年に移転してきました[source: 39]。

(6) 土壌改良材製造業

日色野には、昭和44年から養豚の堆肥を利用した肥料製造を始めた企業があります。堆肥にオガクズを混ぜて発酵させた有機肥料を、主にゴルフ場の芝用として全国に出荷しています。現在では豚や牛、鶏糞などを専門業者から仕入れ、家庭園芸用の肥料や土も製造・販売しています[source: 39]。


5. 校区の活動

(1) 校区ふれあい夏まつり

夏祭りのステージで子供たちが和太鼓を演奏している様子
校区ふれあい夏まつり①
夏祭りの会場風景。多くのテントや人が集まっている。
校区ふれあい夏まつり②

地域の連帯感や連携を強めることを目指し、平成16年から始まった活動です。「笑顔・ふれあい・おもいやり」をテーマに、中学校などを会場として開催されます。校区総代会が主催し、PTA、JA、老人クラブ、民生委員会など多くの団体が共催・協力し、模擬店やゲーム、ステージ発表などで賑わいます。保育園児の和太鼓演奏や、復活した盆踊りなども行われ、子どもから大人まで楽しめる交流の場として定着しています[source: 40]。

(2) 市民館活動

青年たちが歌舞伎の衣装で舞台に立っている様子
青年による素人歌舞伎
前芝地区市民館の外観写真
地域活動の拠点・前芝地区市民館

前芝の人々は昔から「芝居」好きだったと言われ、戦後から昭和30年代にかけては祭りで芝居や歌謡ショーが催されました。公民館は産業・娯楽の拠点でした[source: 41]。

昭和50年3月に前芝地区市民館が完成し、地域住民の集いや学習の場として活用されています。現在、高齢者セミナーや料理教室などの市民館講座、俳句や絵手紙などの自主クラブが活動しています[source: 41]。

文化祭のお茶席で、お点前をする人と客をもてなす人々の写真
校区文化祭でのお茶席
文化祭のお茶席で、着物を着た女性がお茶を点てている様子
校区文化祭(お茶席)

活動の成果は、毎年秋の「前芝校区文化祭」で発表・展示され、多くの人で賑わいます。また、毎月発行される「市民館だより」は、全戸配布という形で30年近く続けられており、貴重なコミュニケーション手段となっています[source: 41]。

(3) 敬老会・成人式

敬老会の会場で多くの高齢者が集まっている様子
敬老会
成人式の会場で、スーツや振袖姿の新成人が並んでいる様子
前芝校区 成人式

敬老会は、戦前から青年団が中心となって行われてきた歴史があり、現在は総代会などが実行委員会形式で運営しています。75歳以上の方を小学校体育館に招き、アトラクションや記念品贈呈などで長寿を祝います。対象者数は年々増加傾向にあります[source: 42]。

成人式は、昭和37年から一時市合同で開催されましたが、昭和45年以降は各校区での実施が続いています。前芝校区でも、総代・社教委員・町議員が実行委員会となり、新成人を祝う式典を開催しています。記念アルバム贈呈や恩師への花束贈呈など、手作りの温かい式典となっています[source: 42]。

(4) 共同風呂

梅薮共同浴場の建物外観
梅薮共同浴場

かつて海苔養殖が盛んだった海岸沿いの集落には、共同風呂が多く見られました。前芝校区でも、梅薮町(上湯・下湯)、日色野町、前芝町にそれぞれ共同浴場がありました。最も古いものは明治38年に梅薮町に作られました[source: 43]。

共同風呂は、一日の疲れを癒すだけでなく、地域の情報交換や交流の場として重要な役割を果たしていました。掲示板には様々な情報が貼られ、脱衣所では世間話に花が咲きました。子育て中の母親を助け合う光景も見られたといいます[source: 43]。

しかし、漁業権放棄後の昭和40年代から内風呂が普及し、共同風呂は次第に利用者が減少し、昭和48年から平成8年にかけて全て閉鎖されました[source: 43]。

(5) 消防団活動

消防団員がホースを持って放水訓練をしている様子
放水訓練風景

狭い地域に家が密集する前芝校区では、火災や水害への備えが重要でした。消防組織は、明治35年の私設消防に始まり、明治44年に公設の前芝村消防組として発足しました。その後、警防団を経て、戦後の昭和23年に消防団となりました[source: 44]。

昭和30年の豊橋市合併に伴い、豊橋市消防団前芝分団となり、前芝・梅薮・日色野の3部体制で活動しました。腕用ポンプからガソリンポンプ、自動車ポンプへと装備も更新されていきました[source: 44]。

消防ポンプ自動車の写真

昭和28年の台風13号の際には、消防団が中心となって応急復旧作業にあたりました。現在、前芝分団は第八方面隊に所属し、地域の安全のために活動しています[source: 46]。

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